2010年3月25日 09時05分
1909年10月26日、ハルビン駅構内で伊藤博文を暗殺した安重根は、旅順で死刑判決を受け、今からちょうど100年前の10年3月26日、処刑された。
日本国内で安重根のことを知っている人は少ない。しかし、韓国において安重根は抗日運動の英雄として高く評価されている。70年には、ソウルに安重根の偉業を伝える安重根義士記念館も建設された。
歴史上の人物の中で今でも人気の高い豊臣秀吉は、韓国では、16世紀に朝鮮半島に出兵した「侵略者」の代名詞である。
日韓両国の歴史認識の溝を埋めるのが容易でないことは、こうした事例からも察することができると思う。植民地をめぐる支配と被支配の歴史体験は、簡単に埋められるものではない。共通認識を育てていくのは至難の技だ。
日韓両国の有識者でつくる第2期日韓歴史共同研究委員会は、これまでの議論や共同研究の成果を報告書にまとめ、公表した。第2期委員会は、第1期の古代史、中近世史、近現代史に加え、新たに教科書小グループを設置したのが特徴だ。
歴史認識の違いは、日韓関係史の中でも特に19世紀後半から終戦までの近現代史で際立っていた。
従軍慰安婦や侵略戦争などに関する教科書の記述をめぐって、両国委員の間で相当激しい議論があったようで、感情的な対立も生じたらしい。
どのような人たちが委員になっているか。それによっても報告書の中身は違ってくる。
教科書小グループの報告書の中で日本側は、韓国の教科書が、謝罪と反省に関する天皇の「お言葉」や「村山談話」のことを記述していない、と指摘。これに対し、韓国側は、朝鮮半島や中国大陸を侵略し多くの人々に被害を与えた記述が消極的である、と日本の教科書を批判した。
植民地支配をめぐる「した側」と「された側」の歴史対話の難しさを浮き彫りにした共同研究となったが、将来にわたって対立の解消が不可能だというわけではあるまい。
植民地支配を「した側」が、した行為の正当性だけを強調すれば、被害を受けた側は反発を強めるだけであり、歴史対話は成立しない。
歴史対話の難しさを前提にして、その上で、時間をかけて、じっくりと、溝を埋めていく努力を続けていくことが大切だ。
共同研究の成果がなかったわけではない。例えば、日本書紀にある「任那(みまな)日本府」について、韓国側の指摘を受け、日本側も「任那日本府(という用語)は使わない方がいい」と応じた。
教科書小グループを設け、日韓両国の教科書をまな板に載せたこと自体、違いを確認する機会になったはずだ。
「違いは間違い」だと決めてかからず、一方の歴史観のみを押しつけるのでもなく、実証的に溝を埋めていく作業を進め、共同研究の成果として相互理解が深まるのを期待したい。
一方的に努力を求められるだけでは「溝」とやらが埋まることは無いんじゃないかね。なぜなら、向こうからすれば求めれば求めるほど譲歩が引き出せるということだから、「溝」があればあるだけ向こうにとっては利益があることになる。