罪意識は、聖なるものを冒す行為や法を犯すことだけに限らない


日本人の「水に流す」という思想




中国人と朝鮮人は、過去を大事にし、歴史を重んじる民族だ。


歴史を重んじる民族は、関心ごとを過去におき、「後ろ向き」思考になりやすい。だから過去にこだわり、恩を忘れず、仇をも忘がたいので、恩義主義と復仇主義の思想が、社会の道徳的規範として発展する場合が多い。



日本人は、中国人や朝鮮人に比べて、あまり過去にこだわらない民族で、よく恩知らずや「忘恩不義」に思われがちだ。しかし、過去にこだわらないから、発想は「前向き」となる。その背景には、日本人に「水に流す」という思想があるからだ。



「水に流す」という思想は、神道のミソギハラエから来たものである。


天つ罪を犯した須佐之男命さえ、高天原から追放された後、出雲の肥の川(斐伊川)上流でミソギハラエをしたことだけで、いちやく敬愛される神になった。それはミソギハラエによって、再起、再生を認める日本人のあざやかな変身の原点である。中国人には考えられない発想だ。



水はムスビの霊力を持つとともにハラエの霊力をも持つという神道の原初的観念が「水に流す」発想の原点にもなる。


日本人の罪意識は、聖なるものを冒す行為や法を犯すことだけに限らない。本居宣長は神道の罪意識について、神の心にかなわないような、美しくないものはすべて罪としてみられるとしている。


水はいっさいの罪やケガレを洗い流して、すべてを祓い清める浄化力を持つと考えるので、水に流せば、きれいな身になれると考えられるからだ。



そもそも神道は「八百万神」をもつ多神教なので、一神教のようにドグマやイデオロギーにこだわる必要はない。価値観は絶対的ではなく、多元的だ。だから時代と状況が変われば、つねに身も心もいれかわることができ、新しい原理や状況に転向することができる。



だから中華文明が入ってくると、中華文明の原理に従って行動し、西洋文明が入ってくると、「脱亜入欧」して、西洋文明の原理に従って、近代化をおしすすめることができる。


戦争にもなれば、一億総玉砕の原理に従って行動し、平和にもなれば、平和主義の原理に従う。


戦争には勇敢に闘い、平和には自衛隊の存在まで否定しようということになる。



このタイプの民族は、牛から馬へとのりかえるのにすばやいタイプだけであって、これは決して無節操ではない。日本の歴史を見ると、武士の時代にも、日本株式会社になってからのエコノミック・アニマルの時代にも、その共通項は、集団に対する誰よりも強い忠誠心というものなのだ。



『それでも日本だけが繁栄する』 黄文雄 p137〜139