理性を飛ばし、酔わせる要素を持っている

 それが、いつの頃からか、百貨店はただの商品の棚に見えるようになってしまった。

 理由は様々に語られる。簡単には解明できそうにない。消費の多様化に応えきれなくなったと言われるかと思えば、あふれる物品による希少性の消滅が語られる。もうモノなんて欲しくないとまで主張する人もいる。

 だが、ちょっと待って欲しい。

 我々は最初からモノが欲しかったのだろうか。違うと思う。

 百貨店で本当に欲しかったのは見たことのないモノの集積を味わう陶酔であり、酩酊ではないか。

 我々はモノが並ぶ空間で、酔っぱらいたかったのだ。

 たとえば、東京西部の商業集積地でまもなく閉店する百貨店がある。

 ここに出店する婦人用品店に取材した知人の話によれば、閉店が発表されて以来、東京の反対側からもお客さんが来て、連日盛況が続いているそうだ。こうした例は、ほかの百貨店でもテレビや新聞でよく報道されている。

「だけど、そこの店長さんによると、特に値段は下げていないんだそうです。それでもどんどん売れている」

 もうじきこの店で買い物ができなくなる、という心理が演出されるだけで、興奮が生まれ、理性はたやすく酔っぱらう。百貨店に限らず、買い物はもともと理性を飛ばし、酔わせる要素を持っている。ちょっと大胆に言えば、かなり多くの人がその感覚をまた味わいたくてたまらないと、今も潜在的に思っている。どこで飲めば気持ちよく酔えるのか、慎重に探しているところではないか。

 そう考えると、激安ブームの盛り上がりは実は「安さ」が理由ではないのだと思う。

 「安いものを見つける」ハンティング中のような興奮が理性を酔わせるのだ。

 百均にはじめて入ったときの驚きと高揚感は、獲物がうじゃうじゃいるポイントを見つけた猟師の気分と、たぶんよく似ている。











百貨店で不景気を語るなかれ:日経ビジネスオンライン


総じて百貨店の売り場は、祝祭的な感覚に欠けると思う。理性的に過ぎるというか。